アートプロジェクトの源流としての炭鉱

福岡県を中心に作家・リサーチャーとして活動する國盛麻衣佳さんは、炭鉱には現代のアートプロジェクトの源流があると言います。炭鉱と美術について、じっくりと話を伺いました。

INTERVIEW

國盛 麻衣佳 |美術家

アートプロジェクトの源流としての炭鉱

2016年より、いわき市で石炭を使ったアートワークショップが開かれています。作家として参加しているのが、福岡県を中心に作家・リサーチャーとして活動する國盛麻衣佳さんです。「現代のアートプロジェクトの源流が炭鉱にあった」と語る國盛さんに話を伺うと、福島県浜通りにあった常磐炭鉱と、世界の文化的潮流が混じり合う潮目がうっすらと見えてきました。

取材・構成:小松理虔(ヘキレキ舎)

-今回は取材を引き受けて頂きありがとうございます。まず、國盛さんがいわきに関わりを持ったきっかけからお話いただけますか?

2016年に、いわきのNPOワンダーグラウンドさんから声をかけてもらって、最初のワークショップを開催させてもらいました。いわきに初めて行ったのは2012年です。常磐炭田史研究会からお声がけいただいて、その時はまだ軽い視察のような形でした。その後、2015年に「文化資源学会」の視察でいわきを訪ねました。その時に、ワンダーグラウンドの会田さんに出会い、現在のような関係が続いています。

いわきでは、いわき産、北海道産、福岡産の石炭・石炭灰・赤ズリを粉砕したものを絵の具にして似顔絵を描くワークショップをやったり、参加者と一緒に炭鉱遺産を歩いてルートマップを考えたり、活用アイデアや課題を見つけるプログラムを行ったりと、数年間にわたって活動させてもらっています。2007年に炭鉱に関わり始めて以来、北海道や筑豊には入っていましたが常磐はしばらく経ってからでした。いつか行ってみたいなと思っていたので、とてもありがたい話です。

いわきには、炭鉱だけではない産業がたくさんあって、炭鉱の歴史とか魅力というのはいわきの魅力の一部なんだなと思います。例えば北海道は、炭鉱がなくなったら街自体が失われるという状況がありました。夕張メロンも名産だけれど、炭鉱産業から十分転換できているとは言い難く、町がなくなって森に還っていく地域もあります。

そういうのを見ると、いわきはまた違うなと思います。山口の宇部も産業転換していますが、それは工場町としての活気と魅力です。漁業もあれば農業もあり、工場地帯もあるけれど観光業も盛んという、複数の要素が魅力を作っているのがいわきだと感じています。

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-いわきでは作家としてワークショップに参加されるだけでなく、リサーチャーとしての立場から講演やまち歩きの企画もありました。國盛さんから見て、炭鉱の面白さとはどこにあるのでしょうか。

炭鉱をテーマとし始めた頃は美術の制作をしていたのですが、ずっとひとつの疑問がありました。極端に言えば、石炭を掘り出すためだけにできた場所に、なぜ文化が生まれて普及したのか、ということです。古い城下町などではなく、炭を掘るための場所なのに、なぜ文化や音楽や芸術が生まれていったのか、それがどのように形作られていったのかを知りたいと思うようになりました。現在は、作家活動というより歴史の検証や調査が多くなり、今年1月7日にはそれらをまとめた『炭鉱と美術』(九州大学出版)という本も出版されました。

本を書くために色々調べてみて興味深かったのは、衰退する炭鉱町から今日的なアートプロジェクトの先駆けになるような事例がいくつも出ていることです。例えば、1961年から山口県宇部市で開催されている日本初の大規模な野外彫刻展「現代日本彫刻展(現UBEビエンナーレ)」がそうです。コンペ型の企画なのですが、地域の衰退を食い止めようと、まちなかに大規模な野外彫刻展という形で作品を展示する国内では初めての事例となりました。

また、国際的に活躍する芸術家の川俣正は1996年から福岡県田川市で「コールマイン田川」というプロジェクトを10年というロングスパンで開催しています。現在ではありふれた言葉になっている「アートプロジェクト」という言葉や表現形式も、川俣正らによって普及してゆきました。

北海道でも、1992年から彫刻家の安田侃らによって、廃校を芸術文化交流施設「アルテピアッツァ美唄」にするという取り組みが行われてきました。アートによる公的な廃校の再生としては、国内でも最も初期の事例です。まちなかへの展示、市民参加、廃校利用など、全国で行われているアートプロジェクトの動きが、筑豊や、宇部や北海道といったいろいろな旧産炭地を起点に行われていたわけです。

なぜそうなったのかと言えば、大きな社会問題をその都度抱えていたのが炭鉱町だったからだと考えています。1950年代に福岡市を中心に隆盛した美術集団「九州派」たちのパフォーマンスは、当時の労働争議に影響を受けていて、その一つに戦後最大の三池争議がありました。宇部の彫刻展も、地域が衰退し環境が悪化するという課題を克服するべく行われた側面があります。

炭鉱というのは、近代の社会的課題が凝縮され、象徴的に現れる場所でもあり、だからこそそれらに対する克服を試みるするような先駆的な表現が生まれていったのだと思います。

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-炭鉱に現代美術のひとつの大きな流れがあったというのは、本当に面白いお話ですね。いわきにも共通することがたくさんありそうです。もともと炭鉱に関わりを持ったのはどのような経緯があったんですか?

炭鉱に関わり始めたのは、2007年の頃でした。地元の三池炭鉱が閉山して10年程経ってから制作のテーマとなりました。地元では応援してくれる人もいる反面、風当たりも強かったです。そこで、どうやら炭鉱というのは自分一人が興味を持ったところで勝手に触れたり触ったりできるテーマではないと気付き、他に炭鉱をテーマとしている美術表現を探すようになりました。何十年も前から、様々な表現者たちの動きがあったことを知りました。次第に、炭鉱の歴史と現在アートの関わりについて興味を持つようになったんです。

それから数年にわたって研究を続けてきましたが、強く思うのは、炭鉱は扱うテーマがとても多いということ。面白いけれど、範囲も広いし、深いし、扱いが難しいものもあります。労働がテーマになる人もいれば、ジェンダーを研究対象にする人、囚人の歴史を研究する人もいます。とにかく研究対象、テーマが多様なんです。

衰退する炭鉱町が今後存続していくための鍵となるのは、いかに地域の外の人との関わりを増やしていけるか、ということだと考えています。炭鉱の歴史は郷土史ですが、いかにして様々な角度から普遍的な歴史としていくか。幸い、産炭地には欧米や韓国はじめ世界各地からも研究者などが訪れます。そういう外部の担い手によっても歴史の検証や保存の機運をサポートしてもらわないと、地元だけでは手に負えません。いかにして興味を持ってくれている人々に地域を開いていくか、外からの関わりを増やすか、それを考えることが地域の存続に関わります。

海外にも間口を開いていくためには、一次資料にあたることができるようなデジタルアーカイブを作ることも大切です。最近では、資料の面白さや保存の必要性から、作家活動というよりも調査やアーカイブがメインになっているのですが・・・。一次資料に触れられる環境にいるわけですから、とても面白いしやりがいも感じてはいますが、これを最終的にどう表現に結びつけるかも考えていかないと、と思っています。

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-作家としての活動が、次第に調査やアーカイブになっているというのが面白いですね。いわきでも、実在する元炭鉱夫が高齢化してきていたり、歴史の保存のギリギリのタイミングになってきていると感じます。けれども、炭鉱町のリサーチには、独特の難しさがありませんか? いわきでも、有志たちがアートプロジェクトのためにリサーチに入っていますが、なかなか一筋縄ではいかないと聞いています。

私の場合は、ひいおじいちゃん、おじいちゃん、おばあちゃんが炭鉱関係の仕事に勤めていました。炭鉱の発展や衰退の中で形成された人間関係もあったと思います。三池では、戦後最大の労働争議「三池争議」がありましたので、組合の分裂もありましたし、あの人はよそに出て行ったとか、あの人は残ったとか、職種や、賠償問題や、出身地だとか、いろいろな階層や差異や分断があったようです。

閉山して、当事者が少なくなっていく中で歴史を継承する必要がある一方、さまざまな分断や人間関係を想起し返すようなことはしたくない、という心情も一方であるようです。
私の家族親戚の中でも、炭鉱の話題は全盛期の頃や、ひいおじいちゃんの職場の待遇が良くなった以降の話が多かったです。それ以前の苦しい時代や苦い記憶といったものは語られていないです。自分はそのルーツも知ってみたいが、そこになかなかたどり着けない。そんな難しさがありました。

私自身は、長らく地元が好きではありませんでした。日々寂れていく街で生きていくのかとネガティブな気持ちになってました。でも、炭鉱にまつわる家族のルーツを知ることによって、とてもしっくりきたのを覚えています。アイデンティティを得た瞬間、というか。やっぱり地域の歴史を知ることって必要なんですね。そういう体験があったので、まずは石炭に触れられる場所から作ろうということで、石炭を使った絵画のワークショップを始めたんです。

-そんな難しさがあったんですね。そのような困難さがありながらも関わり続けるのは、やはり魅力や文化的な価値があるからですよね。今後の展望を教えていただけますか?

いま関心があるのが、炭鉱から生まれた美術以外の文化も視野に入れることです。当時の機関紙や同人誌を集めたり、当時を知る人に話を聞きに行ったりしています。もらった資料は地道にスキャンして、リストも作っていつか公開できるようにしています。炭鉱労働者というとものすごく単純なイメージを持たれがちですが、労働が終わった後に、音楽が好きな人がジャズバンドを組んでいたり、オーケストラに入っていたり、俳句を読んだりカメラを撮ったり、スポーツをしたりと、ものすごく豊かな文化があった。まだまだフォーカスされてない文化活動にも、今日の文化を知るためのヒントがあると感じています。

また、文化活動の他にも、産炭地特有の精神性というものにも関心を持っています。地方の炭鉱町に多様性や寛容性が生まれた背景には、さまざまな出自や事情を持つ人たちの著しい流入出と、公私共にある共同体としての暮らしがあったからでした。炭鉱町での暮らしはプライバシーもないので、いろいろなものを割り切って寛容し、受け入れて暮らさなければいけなかったからかもしれません。そういうコミュニティのあり方、精神のあり方は、あらゆるところで分断が叫ばれる現代にも参照すべきところがあるような気がします。

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-そうですね、大変示唆に富む話です。炭鉱的な関わり合い、いわきでも「一山一家」なんて言われていますが、現代にも必要なコミュニティのあり方ですね。

もうひとつ興味があるのが、旧産炭地に関する世界的な動きです。1990年代の後半からヨーロッパを中心に「クリエイティブシティ」という動きが活発になりました。芸術文化や創造的な産業によって都市の再生を促そうというもので、その走りの一つに、イギリスやドイツの炭鉱町があります。それらが隆盛して約20年になるので、創造都市の検証も可能となるでしょう。私自身も、この功罪について調べてみたいと思っています。炭鉱の歴史にもつながりますし、日本のアートプロジェクトをいかに持続可能なものにしていけるのかのヒントになるような気がしています。

最近、日本の各地で「シビックプライド」という言葉をよく耳にしますが、この言葉も19世紀のイギリスの炭鉱町から生まれたと言われています。当時、イギリスで産業革命が起き、農村からたくさん人が石炭産業に集まってきました。その時、どうやったら縁もゆかりもなかった人が、新しい街に愛着を持ってもらえるだろうかを考え、様々な文化政策が行われました。

今は、自分たちの故郷やルーツに対する誇りとして使われる言葉ですが、当時は、外から移住した人々に愛着を持ってもらうための政策、つまり逆の意味の言葉だったんです。そういうところにも地域づくり、アートプロジェクトとの関連やヒントがある気がしています。

炭鉱というテーマは早々に終わらせたいと思っていたのに、調べれば調べるほど深みにはまってしまい、今もリサーチやアーカイブが続いています。今後は検証に加えて、再び作家としても美術活動を続けていきたいと思っています。いわきにもぜひまた伺えたらと思っています。常磐炭鉱にまつわる話も、ぜひ教えてください。

 

プロフィール 國盛麻衣佳(くにもり・まいか)
福岡県大牟田市生まれ。女子美術大学美術学科洋画卒、東京芸術大学大学院修士課程美術研究科壁画専攻卒、九州大学大学院芸術工学府環境・遺産デザインコース卒、博士(芸術工学)。炭鉱をテーマとし、国内外の炭鉱町から石炭や石炭灰などを収集して顔料にし、作品制作やワークショップを行っている。また、炭鉱から生まれた美術に関する研究も行なっている。2020年に『炭鉱と美術―旧産炭地における美術活動の変遷―』(九州大学出版社)を出版。