アートによる文化的復興を、福島の地で

福島大学教授で「福島ビエンナーレ」の実行委員長でもある渡邊晃一さんに、今年の福島ビエンナーレの見どころについて、そして地域とアートとの関係について話を伺った。

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渡邊 晃一さん(福島大学文学・芸術学系教授、福島大学「芸術による地域創造研究所」所長)

アートによる「文化的復興」を、福島の地で

福島県において隔年で開催されている「福島ビエンナーレ」が、今年も開催されています。そこで今回は、福島大学教授で「福島ビエンナーレ」の実行委員長でもある渡邊晃一さんに、今年の福島ビエンナーレの見どころについて、そして地域とアートとの関係について話しを伺いました。福島とアート。関係づくりをいかに進めていくのか。

—まずは、今年の福島ビエンナーレの見どころや企画の意図などについて教えて下さい。

今回のメイン会場は二本松です。あらたに「重陽の芸術祭」として開催します。二本松には、菊人形祭りや日本酒、安達ケ原の鬼婆伝説や、智恵子の生家など、福島県の文化や歴史を語る上で重要なものが沢山あります。菊や日本酒などのイメージをつなげていくなかで、「重陽の節句」というキーワードが出てきました。

開催日となる9月9日に、日本酒に菊を浮かべて長寿を祝うという節句があります。節句というと、1・3・5・7・9と、奇数の数を陽と捉え、それが重なる日の節句を祝う風習がありました。9はその中でも最も大きな数字です。「九」という字はまた「久」に通じ、久しい、長く続くというような意味合いを持ちます。その他、菊慈童などの伝承とも重ね、不老長寿を祝う節句として扱われて来た歴史があったのですね。

安達ケ原の鬼婆もまた「長寿」というイメージで繫がります。智恵子も二本松(旧安達郡油井村)に清酒「花霞」を醸造する長沼家の長女として育ちました。生家には、今も新酒の醸成を伝える杉玉が下がっています。また、高村光太郎の『智恵子抄』は、智恵子への思いを綴った詩集ですが、人が生きること、死ぬこと、愛すること、そういう人としての営みが綴られていて、長寿、つまり人はどのように生きるか、どうありたいかという根源的な願いに通ずるものがあります。

震災後の福島において、二本松の文化的な背景を考えたうえで、今後、被災地の方々にとって何が一番大事なことかと考えた時、私は幸せに長く生きる、不老長寿という言葉が生じました。それは人として、与えられた最も根源的な権利であり、「願い」でもあると思います。

これまで現代アートのイメージとして「長寿」というものを表に出した芸術祭は少ないと思いますが、地方で続いている「御祭り」は常にそこに関わってきた。生きるということはまた、死とどう向き合うかということでもあります。つまり「死生観」というようなものを問いなおすようなメッセージは、今、福島にとって必要ではないかと考えました。

img_8957インタビューは渡邊先生の研究室で。福島ビエンナーレについてじっくりを話を頂いた。

—福島ビエンナーレは、震災前から長く続けられている芸術祭でもありますが、原発事故という未曾有の災害を経験するなかで、福島ビエンナーレもまた変化してきたことと思います。震災前後で、どのような変化を感じていますか?

もともと、ビエンナーレは2004年に始まっています。福島市を中心に開催してきたので、震災後も福島市で開催しようと当初は思っていましたが、会場となってきた場所が震災後、痛手を受けて使えませんでした。また福島市内では、放射線の問題などもありましたから、公的な文化事業として行うのは難しい面もありました。その一方で、震災前から考えていたテーマがありました。2006年にテーマとした「空」をもう一度巡回していきたいと。

なお、震災前と震災後では「空へのイメージは違ってきました。福島では、自然災害の痛みだけでなく、もっと長い時間的なスパンで考えなければいけない放射能汚染という問題も生まれていましたから。もともと、「空」というテーマは、智恵子が「ほんとの空」と呼んだ、自然の下の美しい故郷の「空」でした。その福島に住む私たちは、震災後、マスクでの生活を余儀なくされてしまった。自然はそのまま美しいのに、マスクをしなければいけない。その断絶や、価値観の転換というものを引き受けなければならない。

今、アートでは何ができるのか。もしかしたら何も出来ないのではないか。今の福島を世界に発信し、未来の視野を含めて、長いスパンで考え、支援していく方法として、アートを考え、進めてきた感じですね。当初、震災後は、生きること自体に精一杯でしたから、アートへの支援は少なかった。

その一方で、福島の「空」というテーマの中で、関わってくれるアーティストの方がいて、様々な出会いも生まれました。オノ・ヨーコさんやヤノベケンジさんなど、国際的なアーティストの方々の支援もあり、震災前に比べて「福島ビエンナーレ」は、全国的に知られるようになっていきました。

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重陽の芸術祭のパンフレット。さまざまなアーティストが名を連ねている。

—震災後、特に福島では都市の復興だけではなく、人々の心の復興が求められていると思います。原子力災害によって地域の絆やコミュニティが分断され、地域の人たちが心の拠り所にしてきた歴史や財産が失われてもきました。そこで芸術文化が果たす役割の大きさを強く感じられた5年半だったのではないですか?

そうですね。震災は多くの喪失をもたらしました。もちろん、放射能を除去したり、地域を活性化させるような対策は必要ですが、その一方で、地域の持つ伝統、文化的な歴史や人間関係、精神的な心のケアを組み込み、生きることの実感を与えていくような場を作ることも大事でしょう。

そのためには、まず、文化的なものと文明的なものの違いを考えることも必要だと思うんですよね。文化というのはつまり「カルチャー」。例えば農業を「アグリカルチャー」というように、土に根ざしているものが文化です。地震や津波というのは、文化的な立場で起きた自然災害だったわけですが、それがまた文化をあらたな組み立てる契機ともなります。

一方で、東日本大震災では、私たちが精神的な拠り所として守ってきた文化を、文明が奪ってしまったとも言えます。文明とは、「シティ」を語源にしているように、電気に支えられた特殊な都市を意味します。便利な生活や、快適なシステム、まさにその中央部を支えるために原発が生まれたわけですが、原子力発電所のようなエネルギーに支えられた巨大な「中央」が、震災後、炙り出されてきたわけです。

アートも同じです。文化的なアートと、文明的なアートがあるのではないかと感じています。文明的なアートは、どの地域でやっても同じ。場所はどこでもいい、というアート。反対に文化的なアートは、その土地に根差したかたちで表れてきたアートです。福島であり、東北であり、ひいては日本であることを含み持った、同時代のアート。高村光太郎が「緑色の太陽」から「ほんとの空」に転じたような変化が、震災後の福島に住む私たちにも強く感じられるようになった。

コンビニエンス・ストアーやファミリー・レストランができたと言って、商業的に都市として活性化させていこうとする考えが「文明的復興」だとすれば、地域の歴史や民俗的な部分をきちんと捉え、この地域にしかない自然や伝統を大切にする考えを「文化的復興」と言えるかもしれません。わたしたちは、文化を基盤にして、アートを展開することを、震災後は常に念頭に置いてきました。

img_8951インタビューの前には、渡邊先生の講義にもお邪魔させて頂いた。全国の取り組みを学ぶ講義。学生の集中力も高い。

—なるほど、文化的であるか、文明的であるか、この違いは大きいですね。それは「精神的」と「物質的」と言い換えることができるかもしれません。とても重要な視座だと思います。ところで、地域のアートプロジェクトというと、福島だけでなく、日本各地の地域で、ここ数年「流行」しています。近年の地域アートブームを、渡邉先生はどのように見てきましたか?

もともと「地域」と「アート」は強く結びつける必要はないと思っていました。アートの側は、地域の持つ問題点を拾い出すわけだから、仲良くしてはいけないことも多い。また、地域の中で今、求められている、たくさん人が来てくれるとか、商業的に活性化すること、若者が沢山、観光地に訪れて欲しいとか、そういう要求に対しては、むしろデザインのほうが解決する力は持っていると思います。アートは、問題は提起するものであって、デザインは解決するものという考え方もありますから。

正直なところ、今行われている芸術祭の多くは、今までの成功事例を基にして、地域の中にアート持ってくれば、上記のようなことが解決できるとていう意識の上で成り立っているように思えます。

なお、私たちが「福島ビエンナーレ」をはじめた理由は、そのような商業的な意味は前提にしていませんでした。もともと、現代美術を鑑賞したり、制作する環境が整っていない福島で、学生たちにいかに美術を伝えられるのか、教育的な問題から出発していました。海外に行くと、ビデオアートやインスタレーションなど、多彩な表現に出会えますが、地方の展覧会では、号数の制限された絵画のような展示が中心で、そのような知識や経験で、子どもたちに美術を教えるというのは、とても残念なことだと。ですから若い人に向けた配慮から始めたものだという理由が1つあげられます。

それから、福島にある唯一の国立大学として、地域に還元、循環できる場を作りたいという思いもありました。安達太良山とか吾妻山とか、生まれたときからあると、その価値が空気のようになっていて、見えないこともありますよね。私は北海道出身なので、逆に福島の魅力を感じます。本当に素晴らしいものが福島には一杯あります。国内外から様々なアーティストが福島に来ることによって、「気づき」を提起できることもあると思いました。アートの手法を使って、そこに光を当てるのも芸術の力ですね。

もう1つは、アーティストたちの「ボーダレス」な考え方があります。アートは境界がない。地域に入ったアーティストは、地域の人たちとさまざまな繋がりを作ってきます。いつの間にか、ビエンナーレのメンバー、仲間がどんどん増えていってしまうんですよね。そして、地域の人たち同志にも、新たな交流が生まれることもあります。コミュニティをかき回して、今まで会ったことのないような人たちが、芸術を介して「交流」を生み出すという。

img_9011文化的であるか、文明的であるかを考える必要性を説く渡邊先生。震災後の福島を語る上でも重要な視座。

—確かにそうですね。以前、別のアーティストに話を伺ったとき、アートプロジェクトの成功と失敗を分けるのは「地元の人たちに飛び火したかどうかだ」と語った方がいました。その「交流」や「気づき」を、いかに地域の財産にしていくかが、私たちに問われているのかもしれませんね。

その意味で言えば、わたしはできれば一流と三流でビエンナーレをやりたいと思っていて、二流は要らないと思っています。一流のアーティストは、国際展であったり、経験値や知識が大きいので一般の人たちに与える影響力も大きい。三流は、学生とか若い人たち。まだこれからどうなるか分からない人たちの可能性は大です。一流の人から学ぶことによって、飛躍する可能性もある。だから若い人にうまく関わってもらいながら、学んでいく場としてビエンナーレを利活用してほしいと思っています。

二流って言い方は語弊がありますが、それは、仲良し同志で閉じてしまう関係ですね。毎年、同じようなグループで展覧会を繰り返していては、地域の中に新しい風が入ってくる機会も少ないと思うのですね。作品をアトリエで作り、ギャラリーという美術の関係施設で展示するだけの状況では、地域でアートを展示しても、あまり新たな関係が生まれないと思ったのです。

例えば富士山に例えると、山梨側の湖も静岡の海も見たいと思って、中腹を周遊する考えもありますが、一流はもう頂上にいて、すべてを俯瞰できる。つまり展望が見えているということです。ジャンルも横断して、自分の役割をしっかりと理解して、人と繫がるような制作をしてくれるアーティストが多い。そういう作家が入らないと、地域でアートプロジェクトをやる意味がないとも思っています。

—今回もまさにその「一流」が、数多くプロジェクトに名を連ねていますね。展示はまだこれから続くので、気の早い質問かもしれませんが、今後、この福島ビエンナーレをどのように未来に繋げていきたいと考えていますか?

東京オリンピックの時、東京はスポーツの祭典をしている。その時、福島をアートの拠点にしたいですね。まずは福島に世界中の人たちに足をはこんでもらう。スポーツと違い、アートは、1位2位を争うのではなく、みんなが共生できる場を作り出します。福島をそのような文化的なアートイベントが行わる土地にしていきたいです。

世界に発信された福島のニュースは、今もネガティブなものが多いですよね。福島には、沢山の美味しい食べ物があって、温泉などの豊かな自然に恵まれています。県外から来た人たちが、アートを楽しむために福島にやってきて、泊まったり食べたりして、福島の良さを味わっていくなかで、福島のポジティブな情報を発信する。そんな仕組みが、アートを契機に作れればいいですね。

東京オリンピックは2020年ですから、これからビエンナーレを続けていくと、2018年と2020年に二度する必要がある。2年後は浜通りでも「福島ビエンナーレ」をして欲しいと思っています。あとは若い人たちに引き継いでもらって、福島の沢山の人々に愛される、息の長いアート企画に成熟して欲しいと願っています。

 

profile 渡邊晃一(わたなべ・こういち)
北海道夕張市出身。福島県福島市在住。筑波大学大学院修了。
個展(川口現代美術館、茨城県つくば美術館、銀座コバヤシ画廊、Zoller Gallery(米)、Century Gallery(英)など)。
グループ展(「現代日本美術展」「VOCA」展、北海道立近代美術館、福島県立美術館、板橋区立美術館、
INNER SPACES(ポーランド)、
Chevigny(仏)、Mouson(独)、ボローニア大学などの企画展)。
福島現代美術ビエンナーレ、 会津美里『風と土の芸術祭』等を企画監修。
ダンス作品とのコラボレーションに『大野一雄 疾走する肌膚』(川口現代美術館スタジオ) 2000年、
『平山素子 Life Casting』(新国立劇場)2007年など。