行政と民間に必要な、文化政策の対峙

行政と民間が「対峙」しなければ実ある政策とならない。いわき芸術文化交流館アリオスの大石支配人はそう語ります。文化政策を考える上での当事者の「対峙」について伺いました。

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大石 時雄さん(いわき芸術文化芸術館アリオス支配人)

行政と民間に必要な、文化政策の対峙

福島藝術計画×ASTT2016年度の報告書として発行された「潮目のまちから」から、いわきの文化の多様性を考えるための基礎となり得るインタビューを記事を転載します。福島藝術計画×ASTTでは昨年度、文化政策について考える「マナビバ。」を開催してきましたが、文化政策と一口にいっても、民間の求めるものと行政の求めるものは異なります。私たちは民間人としてどう文化政策と向き合うのか。いわき芸術文化交流館アリオスの支配人、大石時雄さんに伺いました。

―経済的価値ではない価値を見出すこと

アリオスの事業についてお話ししていきます。運営していく上で大事にしているのは、人と人との交流を基本とすることです。それから、お金に換算できないものの価値を見直すことです。1960年から70年代、日本の経済がどんどん成長していくなかで、私たちの財布の中身もまた豊かになっていきました。お金を払うことで、快適なサービスを受けられるようになったわけです。モノだけでないですね。便利や快適というものを、お金に換算してきました。これ自体はとても良いことだと思います。

しかし、2008年をピークに、日本の総人口が減少に転じたと言われています。高齢化が進み、子供の数も減っています。つまり将来労働者が減っていくということです。労働者が減り、消費者も減るわけですから、日本経済はかつてのような成長を見込めなくなってくる。国も地方自治体も、いわき市もすでにそうなっています。では、お金がないから色々なものを諦めるというのでいいのか。お金がないので何もできません、ということではないはずです。お金に価値を見出すうちは、金がなくなったらおしまいになってしまいます。

東京を例に出すと、確かに東京はモノやサービスに溢れています。それらは、お金があれば何でも手に入ります。でも、お金がなければ何も手に入りません。つまり、東京というのはお金がないと楽しくないんですよ。お金がなくても生きていけるとか、お金で換算できない価値を見せていく必要があります。田舎は、東京と比べれば、まだお金に変えられないものが多くあります。そこに価値を見出さなかったら、お金がすべて、経済性がすべて、ということになってしまう。海、山、川、気候、そして人情。そういうものに目を向けていかないといけません。

沖縄の離島などに行くと、タクシーもなければコンビニもありません。つまりお金で買えるものが少ないんです。つまり、島の人たちは、私たちほどお金に価値があるとは思っていない。じゃあ翻って、国全体にお金がなくなっているという今、お金のみに価値を求めていくのは、まさに無い物ねだりに等しい。お金に価値を置かないものを探して、その価値を見出していくことが必要です。そして、それによって自分たちの人生を組み変えていく。そのようなアプローチが必要なのだと思います。

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―シェアの時代は希望である

では、そういう価値観を文化の力によっていかに作っていくのか。確かに予算が潤沢にあれば、毎年ウィーンフィルやベルリンフィルを呼んで素晴らしい演奏を聞くことができるかも知れません。でも、それにどんな意味があるのかを、もう一度問い直さなければいけないと思います。むしろ、地元の食文化や、地域の伝承や、自然など、お金と交換できないものの価値を表に出して、そこにはこんな価値があるよ、ということを示していかないといけないんじゃないか、私はそう考えています。

実際に、文化施設にかけられるお金もどんどん減っていくでしょう。それでも地域を豊かにしていくには、みんな一緒に何かに取り組まなければなりません。お金はないかも知れないけれど、こんなことができるよ、あれも提供できるよ、というように、みんなができることを持ち寄って、シェアしていく。そういう社会を目指すべきだと思うんです。これが東京だったらどうでしょう。お金はないけどやりたいことがあるから手伝ってくれなんて駅前でプラカードを持っていても、なかなか話は聞いてくれない。ところがいわきだと、「まあ家に上がりな」なんてお茶を出して話を聞いてくれて、よっしゃと力を貸してくれる。それが、人情というお金に換算できない価値なんですね。

お金が介在しないと、人間関係の中でなんとかしていくしかありません。いずれ自分も誰かに何かを手伝ってもらうかもしれない。だからまずは誰かのお手伝いをしよう、というように、お互いの人間関係やお節介によって地域が回っていくんですね。今は自転車も車も、そして部屋もシェアする時代です。以前は、他人と共生すること自体が面倒で鬱陶しいものだと考えられてきました。だから家がみんなそれぞれに部屋を持ち、それぞれの部屋にテレビを置いて「個」を守り続けようとしたわけですよね。けれども、最近の若い人たちは、面倒な他人とのコミュニケーションを心がけて色々なものをシェアするようになっています。それは、ともすれば「お金がない」というとこから生まれた当たり前の反応なのかもしれません。しかしそれは、日本の希望だと言っていいと思います。

私も、バブルの時期を過ごしてきた人間です。しかし、今の若い世代は、お金がないことをポジティブに考えて、色々なものをシェアしています。なぜでしょう。思うに、彼らは別に金を求めているわけではない。生き方を求めているんだと思います。お金を求めているのだとしたら、もっとお金に執着するはずです。しかし、実際にはお金から離れていっている。日本経済が縮小し、撤退戦を余儀なくされるなかで、あえて真逆の方に行く。繰り返しになりますが、これは本当に大きな希望だと思います。

―経済重視の文化政策で良いのか

このような時代における文化政策とは、お金と交換できないものに価値を見出すものではなければならないと思います。そして、そのヒントは、それぞれの土地のなかにあるはずです。昔の日本を考えてみてください。第一次産業に従事していた人がほとんどでしたが、彼らは果たして不幸だったのでしょうか。経済的な価値だけで、人の生活の豊かさ、文化的な豊かさは測れないはずです。例えば、地域の里山。お金になり易いからと、もともとあったたくさんの広葉樹を伐採して針葉樹を植えた。しかし、海外からもっと安い木材が輸入できるようになった。日本の場合、人件費がかさみますからね。すると、山自体に価値がなくなっていくわけです。

でも、それは人間にとっての経済的な価値がなくなったに過ぎません。イノシシやクマにとっては、当然里山は価値のあるものです。今、山間部を中心に林業から地域を創り直そうとするところがポツポツと出始めています。林業を志す女性も多いようですね。森に入るには、イノシシやクマから身を守るために猟師が同行することもありますが、林業の活性化によって、少しずつ猟師も戻ってくるようになった地域があるそうです。そこで若い人たちが猟師の文化に触れます。殺した動物を食べ、その命を頂くことで一生を全うさせ、供養する。それが、動物を殺すことに対する許しになる。そういう哲学的なものに若い人たちが触れるんです。そこには大きな文化的な価値があるとは思いませんか?

山に入る若者や、地方に移住して何かをスタートさせようという若者を見ると、お金だけで価値を考えてきた社会に対する、ある種の揺り戻しが始まっているような気がします。お金を介在させないことが豊かな社会になると考える若者がいるということです。そういうことを言うと「江戸時代に戻るのか」と言う人がいるけど、一言で言えば「スマホのある江戸時代に行く」ってことかもしれませんね。便利や快適を100%捨てろ、というわけではないんですから。

そういうふうに、経済的な価値では換算できないものを探していく。そこに価値があるんだと提示していくことが、文化に求められていることだと思います。それを政策としてやっていこうという時、やはり大前提として考えなければならないのは、個人から見た文化政策なのか、自治体や国から見た文化政策なのか、しっかり見分けていかなければいけないということです。

―行政と民間の対峙を生むファシリテーターを

文化政策と一口に言っても、どの立場、どの視点からの言葉かで意味合いが変わってしまうということを、まずは大前提として共有しておくべきです。1つ例を出します。言語とは、文化を形づくる上で非常に大事な要素ですが、かつて日本は、中国や韓国、台湾などに領土を持った際、言語によってその国の人たちをコントロールし、日本人に同質化しようと試みました。これもまた文化政策です。文化政策といっても、決して綺麗なことだけではないということです。政府や行政の思惑、立場というものから語られる文化政策と、私たち市民の立場から語る文化政策というものでは違うんだということをまずは大前提として語る必要があります。

アートプロジェクトを考えてみましょう。アーティストが来て、レジデンスして、住民と一緒に作品を作る、そういうプロジェクトが全国各地で開催されています。やはり、アーティストと地域のお年寄りたちが一緒になって酒を飲んだりしながらクリエイションした作品が、若者たちやボランティアたちを巻き込んで世界に発信されていくというのは面白いですよね。しかし、行政側から見ると、交流人口が増えたとか、地元にどれだけの経済的価値があったとか、そういうものとして評価されがちなんです。

東京オリンピックも、大阪に再び誘致しようとしている万博もそうかもしれません。経済の起爆剤としての効果ばかり期待されて、本来の精神や哲学は置いていかれてしまう。そして、そういうことを推進していく国の文化政策のなかで、地方のアートプロジェクトも行われ、そういった経済的成果でもって自分たちは文化創造都市だと宣言をする、そのような文化政策でいいのでしょうか。そういう考え方は、あまりに行政側からの視点だけで文化政策を語りすぎです。

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私たちは、地域の交流人口が増えても増えなくても、そんなに変わらない。むしろ私たちが望んでいるのは、生まれた土地があって、その土地の文化が広がって盛り上がって、先祖から引き継いだものが次の世代に受け継がれていく、そしてそこに楽しさや充実感がある。私たちが求めるのって、きっとそういうことです。もっと言ってしまうと、私たち生活者が考えるのは、いかに生きるのか、いかに豊かさを共有していくのか、そしていかに死ぬのかってことですよね。それでいいんだと思います。

ところが行政はそうはいかない。行政側からみた文化政策と、暮らしや生活から見たときの文化政策とは、お互いに対峙し合うものなんです。そこでしっかり協働していかないと、こんなはずじゃなかったと、地域の人たちが思い描いたものになっていきません。文化に関わるのならば、誰もがこの落とし穴を理解したうえで臨まなければならないと思います。今では「地方創生」などという言葉もあります。しかし、一般の市民は、本当に行政の掲げる地方創生を望んでいるでしょうか。

地域住民がいかに豊かに日常を楽しむかが目的であって、経済的な価値や交流人口の増加は結果でしかないのに、そればかりを目的としてしまいがちです。だからいつも「こんなはずじゃなかった」と市民の側は思ってしまう。ならば、文化政策がどうあるべきか、どういう街にしていきたいか、文化政策の目的は何なのか、行政の立場、市民の立場から、問題を共有して考えていく。そういう文化政策でなければいけないと思います。

―いわきの多様性を育てていくために

日本の学校教育は、みんなに同じであることを求めます。静かに授業を受けようとか、みんなとお同じようにできるようになろうとか、そういうことを強制されて、できない人は排除されてしまう。つまり全体主義的になっていくということです。しかし、それは優れた軍人や企業人を育てるには良かったのかもしれないけれど、つまりは均質化であって、多様性とは真逆のものなんですね。

いわきが、もし「多様性のまち」なのだとしたら、教育もまた多様性を持たなければなりません。みんな違うんだということが当たり前にならなければならないと思います。みんな違うんだ、という価値を伝えようというとき、芸術や文化の力が有効です。例えばダンスをするとする。たとえ同じ振り付けをしても、その日の気分や体調や、障害のあるなしや、得意不得意でみんな違う踊りを踊るはずです。それは当たり前のことなんですね。だから、みんな違っていて、まずはそれでいいんだということ、否定しない、比較しないということが大事になっていきます。

ありのままの自分が肯定される、それが多様性の本質です。そして、それを感じることができるのが文化や芸術です。これからの学校教育に、文化芸術はますます必要なものになっていくでしょう。このように、学校教育や教育政策が期待する文化芸術と、私たちが望む文化・芸術は大きく違ってきます。そもそも相反するもの、対峙するものとして存在しているんです。ですから、どちらかに偏りすぎるのはよくありません。バランスが取れているということが大事です。

文化政策について語るときにも、行政の立場から一方的に話を聞いていたのではよくありません。相反するものを提示して、理解しあって、協働していくことが重要なんです。それらのことを大前提として、文化政策という言葉の意味をよく理解しながら、事業を始めていく。色々な人たちと共にファシリテートしていくことが大事です。文化政策の主役は誰か。それを考えた文化政策が、いわきからどんどん打ち出されるようになればいいと思います。

 

profile 大石 時雄 (おおいし・ときお)
1959年福岡県生まれ。大阪芸術大学舞台芸術学科演技・演出専攻卒。
広告代理店を経て伊丹・アイホールの設立に参加。
パナソニック・グローブ座(現東京グローブ座)制作担当の後、世田谷パブリックシアター、
可児市文化創造センター、いわき芸術文化交流館(いわきアリオス)の創立に参加。
2008年のオープンから同館副館長・支配人を務める。