歴史と文化で風化に抗う

福島第一原発から23キロ。被災地の遺産や記憶を残すため、さまざまな事業を展開する南相馬市博物館の二上学芸員に、博物館とアートの関係を伺いました。

INTERVIEW

二上 文彦 | 南相馬市博物館学芸員

歴史と文化で風化に抗う

福島市のクリエイティブユニット「フライデースクリーン」による「南相馬ジョッキーズ」。展示会場には、美術館ではなく博物館が選ばれました。その会場となった南相馬市博物館で、震災後たった一人の学芸員として再スタートを模索した学芸員が、今回紹介する二上文彦さん。博物館の学芸員でありながら、美術、アートに可能性を見出したといいます。事故当時のことを振り返ってもらいつつ、二上さんの考えるアートと博物館の関係を伺いました。

取材:小松理虔(ヘキレキ舎) 構成:千葉雄登

 

—今日は取材をお引き受け頂きありがとうございました。まず伺いたいのが、アートやデザインのワークショップを震災後の南相馬博物館で行っているということに強いインパクトを受けました。博物館のアート展。その狙いはどんなところにあったんですか?

皆さんご存知のように、南相馬というのは震災と原発事故後に20km、20km~30km、30km外という3つのエリアに分割されてしまった地域です。で、この博物館は原発からは23kmの位置にあります。20km圏内はもちろん入ることはできませんでしたが、このエリアも緊急時避難準備区域というものに指定されました。人が住むことは問題ないけれども、何かあればすぐに避難できるようにしておくように、という区域でした。

原発事故の直後には、当時の桜井市長がyoutubeで発信していたこともあり、南相馬という場所は知名度も高かったんです。しかも、20km、30kmの大きな丸の中に入ったこともあり、人が来たくない場所になってしまったんです。他の被災地に比べるとボランティアも少ないし、揶揄されることすらある。僕らはただ故郷にすんでいるだけなのに、「なんでお前らそんなところに住んでるのか?」って言われるわけですね。

震災直後は、南相馬発のニュースが非常に多かったんです。そのほとんどが悪いニュースでしたが・・・。じゃあどうやったら住んでいるいる僕らが情報を発信していけるかを考えたんです。正直、当時は文化行政どころじゃなかったです。一度博物館も閉館しました。9月に再開したときには学芸員は僕一人です。そこで考えたのは、何かを揶揄するようなことや、遠くの安全なところから石を投げるようなことではなくて、とにかくこの現場に連れて来たいということ、それから博物館として震災や原発事故をしっかりと後世に残したいということでした。

—そこでアートやデザインの力を借りることにしたんですね。

正直、最初は僕も懐疑的でしたよ。アートなんてわからないので。なかには好き勝手やって、「福島は〜〜」なんて語る人もいましたけど、きっちり対話して、作品を丁寧につくっていく人たちもいて、地元の人が共感する場面もありました。アートって理屈じゃなくて伝える力があるんですよ。彼らと触れ合い、僕の頭もだいぶ柔らかくなりました。

震災遺構、震災遺産と呼ばれるものがなくなってきるなかで、伝えられるものも失われてきています。そうしたなかでも、震災当初にきてくれたアーティストがつくってくれた写真、映像、ラップなどは作品として残すことができました。震災、原発事故関係なく、地域の歴史や文化を伝えるとき、アートのフィルターを通すことで、僕らが説明しにくいことを感覚的に伝えることができる。そんなことを感じました。

アートのど素人で、免疫力のない僕が初めてその世界に踏み込んで、なるほどと思ったわけです。「学芸員は資料保存だ第一の仕事だ!」という人もいますけれども、そういうものとはまた少し違った柔軟性を持つことができたかもしれません。そもそも「ミュージアム」ですから、博物館も美術館も。

 

二上さんの勤める南相馬市博物館。震災直後はたった一人の学芸員として力を尽くした。

 

門外漢だからこそアートの力を直に感じられたと語る二上さん。

 

—二上さんは震災を経てアーティストと関わり見えた学芸員の役割はありますか?

基本的なスタイルは変わりません。伝えること、残すことです。何から何まで残すことは難しいですが、有効的だと思う歴史はアートで残すことができると実感しました。後世の人たちが判断をしてくれればいい。けれど、僕らはまず後世に残さなくちゃいけないんです。いまはアートとして捉えられているものも数百年後には文化財になっている可能性もあります。いま僕らが生活している文化、あるいは震災を経て生まれたもの。震災がなければ生まれることのなかったものは確かに存在します。

—震災後の保存に関して、地元の人が話し合った結果、いつの間にか壊されてしまったものも少なくないように感じています。

そうですね、かなり出遅れてしまったように思います。震災って現在進行形なので躊躇する場面もあったんです。震災当初はそれが仕事だとはわかっていても頭の切り替えがなかなかできなくて、僕も後悔しています。力不足だったなと。例えば瓦礫になったもの、それからズタズタになった人形、これらを持っていくのはやっぱり躊躇します。もしかしたら誰かが取りに帰ってくるんじゃないか、って。写真を撮るためにシャッターを切ることすら躊躇するんですから。

アートでも残せると確信したのは、アーティストの岡部昌生さんが全身全霊かけて作品をつくっている場面を目にした時です。岡部さんのフロッタージュという手法はとても原始的なやり方かもしれませんが、壊れたものはなくなっても、記録は擦過痕として残るんです。素晴らしい作品だったと思います。

それから片桐功敦(かたぎり・あつのぶ)さんという華道家が、瓦礫に花を生けて写真を撮ったことも衝撃的でした。見る人が見れば被災地のどこかなんて一瞬でわかるんですよ。ある意味不謹慎ですよね。でもね、それを見た人が涙を流すんです。被災していない人にとっては、そこにあるのはただの瓦礫でゴミかもしれません。でもそれを宝物のように扱ってくれたことに「ありがとう」と言っている人もいました。賛否両論はあります、でも通じる人には通じるんです。得るものは大きかったと感じています。

 

岡部昌生によるフロッタージュの展示の模様。写真提供:はま・なか・あいづ文化連携プロジェクト

 

華道家の片桐功敦もまた、震災後の福島で数多くの作品を残した。写真提供:はま・なか・あいづ文化連携プロジェクト

 

— アーティストって完全に外部だからふらっと行って怒られながらでも作品をつくることってできるのかもしれません。でも学芸員としてそういったことをするというのは辛いですよね。後世に残さなくてはいけない残酷さ、といいますか。

歴史や文化で飯は食えないなんて言われていますが、どこで誰の役に立つかなんてわからないんですよ。それに、博物館というのは、残せる場所、伝える場所なんです。僕らは歴史を勉強していますし、なかには地質学を専門にしている人もいます。そうすると、長いスパンで物事を見ることができるんですよ。僕は幸運にも家族を失うこともなく、故郷を失うこともなく、家にも住めました。だからかもしれませんが、この震災と原発事故を一つの歴史として俯瞰的に見ようと思っているんです。

歴史から学ぶことって多いんですよ。天明の大飢饉の時にも、この地域から土地を捨てて逃げていく人がいました。それって今の状況と同じだなと感じます。これは歴史に記録されている一つの事実なんです。そういった状況から一歩ずつ持ち直してきたということを知ると、時に勇気づけられることもあります。震災後、市民の方たちから歴史を勉強したいという声を以前にも増して聞くようになりました。故郷を喪失しそうになったからこそ、自分たちで学ぼうと思う方がいらっしゃるのだと感じます。今ある確執を忘れて、自治体をまたいでつながれるのは歴史や文化なんですよ。これからも、その役割を忘れずに、歴史と文化で風化に抗っていければと思います。

 

 

プロフィール 二上 文彦(ふたかみ・ふみひこ)
1973年福島県原町市(現:南相馬市原町区)生まれ。
1996 年より、 野馬追の里歴史民俗資料館(現:南相馬市博物館)に勤務。
福島県相馬地方の伝統行事「相馬野馬追」を中心とした、相馬地方の歴史を研究するかたわら、
相馬野馬追保存専門委員として、野馬追の保存・伝承の指導に携わる。
震災後は国内外各地で野馬追に関する講演会・啓蒙普及活動のほか、
南相馬をフィールドとするアーティストの活動サポートを行っている。